1978年、タイトーから発売された 『スペースインベーダー』(西角友宏 開発)は、日本のゲーム史における最大の転換点となった。それまでの「対戦テニス」や「ブロックくずし」といった静的なゲームから、「敵が攻撃を仕掛けてくる」「敵が移動し、自機に迫ってくる」という動的な緊張感をもたらした。
この作品は爆発的なヒットを記録し、日本中にインベーダーの筐体だけを並べた「インベーダーハウス」が出現。100円玉が不足するという都市伝説(実際には造幣局が硬貨の製造枚数を調整するほどの影響があった)を生むほどの社会現象となった。また、スコアを競う「ハイスコア」の概念を定着させ、後のシューティングゲームの基礎をすべて築き上げた。
1980年、ナムコ(現:バンダイナムコエンターテインメント)から発売された 『パックマン』(岩谷徹 開発)は、ビデオゲームのターゲット層を劇的に広げた。それまでのゲームは「破壊」や「戦争」をテーマにした男性向けのものが主流だったが、『パックマン』は「食べる」というコンセプトとポップなキャラクターデザインを採用し、女性や子供からも絶大な支持を得た。
アメリカでは「パックマン・フィーバー」と呼ばれる熱狂が起こり、キャラクターグッズやアニメ、音楽チャートへのランクインなど、ゲームが「IP(知的財産)」としてビジネス展開される初の成功例となった。この成功により、ビデオゲームは単なる電子玩具から、ポップカルチャーの一翼を担う存在へと昇華した。
1980年代初頭にかけて、ハードウェアの進化により表示できる色数や解像度が向上した。1979年の 『ギャラクシアン』は、それまでのモノクロ画面(またはカラーセロハンによる擬似カラー)ではなく、初めて本格的なRGBカラーでの描画を実現。敵が隊列を離れて個別攻撃を仕掛けてくるアルゴリズムも画期的だった。
さらに、1981年の 『ドンキーコング』(任天堂/宮本茂 開発)は、ビデオゲームに初めて明確な「ストーリー性」と「ジャンプアクション」を持ち込んだ。主人公(後のマリオ)が、さらわれた恋人を助けるために障害物を乗り越えるという構成は、現代のアクションゲームのプロトタイプとなった。
1983年、記憶媒体にビデオディスク(LD)を使用した 『ドラゴンズレア』が登場した。当時のドット絵による表現限界を突破し、まるで「テレビアニメーションをそのまま操作する」かのような美麗なグラフィックは世界中に衝撃を与えた。
この方式は後に日本でも『サンダーストーム』や『忍者ハヤテ』といった作品を生み出したが、操作が特定のタイミングでの入力に限られる(QTEの先駆け)という制約があり、自由度の高いアクションへの移行期における仇花的な存在となった。
この時期、アーケードでのヒット作を家庭で遊びたいという需要が急速に高まった。1981年にはエポック社から 「カセットビジョン」が発売され、日本国内で一定のシェアを獲得。しかし、アーケード版と比較すると性能差が大きく、完全な移植は困難だった。
この「アーケードの興奮をいかに家庭で再現するか」という命題が、次セクションの主役となる「ファミリーコンピュータ」の開発へと繋がっていく。同時に北米市場では、ハードとソフトが乱立する過当競争が始まり、1983年の市場崩壊(アタリショック)へのカウントダウンが始まっていた。